負けないで!大切な命!いじめ・虐待に対抗する私

  • 2017.01.02 Monday
  • 14:10

2017年1月2日 晴れ気温14度

 

 今年のお正月は、3年ぶりに母と過ごしている。

3年前に母が一過性虚血脳血栓で倒れてそして要介護1になり初めて初詣に草加神社に出かけた。

草加神社まで1駅自宅からあり、自宅から1.5キロほどの場所で以前の母なら30分もかからずに歩けたのだが、今の母は45分かけてシルバーカーと私の腕に支えられながら頑張って歩いて行った。

 今年母76歳そして26歳の時に母が生んだ第2子の私は、50歳であった。母は毎日元気だけが取得とも言えるくらい元気だった分焦りとそして老いる事への現実を目の前にしている自分がいた。人生は1度そして長いようで1年1年があっという間に過ぎて行くのである。人生を100年と考えてみても半分生きた私の人生は、辛い時そして幸せを感じていた時何方が長かったかと今記憶を回想していく。昭和41年7月21日気温31.2度の暑い日の夕方私は、東京の父の家族が運営する病院のある亀有で生まれた。母は26歳で、父は31歳であった。この日から、2歳上の姉は、私の存在を厭い両親からの愛と注目を浴びるために私との競争そして私への憎しみが始まった。母が父と結婚している間は、まだ父が家にいた為に姉は、父の注意と父の家族から長女としての注目と愛を受けて私への憎しみそして虐めは軽度の物であった。ただしその度合いは子供としては、可なりの度を越していた。今考えると日本人の戦国時代の遺伝子が残っているのではないかと考えられるほど緻密でかつ卑劣な方法であった。

 私の誕生と共に、姉は生まれたばかりの私へ嫉妬し、それな幼児のころから潜在的な知能の高さが解る方法で、右手を数か月動かさずに当時5歳の姉は、乳児のように親に全てを委ね私への両親からのケアーをそらしたのだ。そんな姉が、公園でどうしてもブランコに乗りたくなり右手を使って上手に漕いでいる姿を母が発見。姉の計画は、そこで崩れた。ここまで考えると子供の考える事のようだが、これを切っ掛けに姉の計画は、私直接的に働きかける虐めへとエスカレートしていくのであった。幾つかの記憶を私が回想すると、4歳の時お風呂に一緒に入ると姉に突き倒されて額を切り、頭から出血した。それ以外にも、私はいじめに疲れ果て5歳半の時に体に力が入らない原因不明の無力症になった。そしてその後も姉の虐めは、精神的に身体的に継続して姉の知能が発達するのと両親の離婚から父からの愛を失ったと同時にいじめの方法は、卑劣で巧妙な物になり母に知られないような方法考えだしていたのである。今思い返してもその方法は、私の胸を裂くほど苦しくて辛い日々であった。母と姉私の3人で生活をしていた頃母は1人で私たち2人を私立の女学校に通わせるためにお休みなく働き続けていた。夜帰宅するのが毎日であった。私は、家に居ると姉の虐めに会うために友人の家や塾や部活動に時間を費やしていたが、夜になるとやはり家に帰宅しなくてはならなかった。姉は、お使いに出すのがだが嫌がると私を真冬の中下着とTシャツ1枚にして外に出した。当時13歳だった私は、下着では外に歩いて友人の家に行かれず踊り場でしゃがんで母の帰りを泣きながら待つ日が何日も続いた。姉は、通常母の帰宅する時間の10分前に私を中に入れて、母に言いつけるともっとひどい事をするからと私を脅して、母に私が泣きつくのを防いだが、ある日母がいつもの時間よりも早く帰宅した時私が、泣きながら踊り場にいるのを見つけた。私は、母に見つかると姉が仕返しをもっとするから姉を叱らずにいてほしいと言ったが、母は勿論姉を叱った。その次の日、私は、姉の竹刀で殴られ続けた。またある時は、包丁で追いかけられたり、首を跡がつくほど絞められたり、また精神的には、『一睡でも眠ったら顔をから熱湯をかけるから寝るんじゃない。』と脅されたりして、私は精神的にそして身体的にボロボロになっり、金縛りになりながら眠る日々が続いた。14歳の時私は、生理が来たと同時にホルモンバランスが不安定にになり、苦しくて苦しくて、この苦しくて辛い世界に生まれてきた自分を人生から消してしまいたくなり、自殺を考えた。

 この世から自分が消えてしまったら、この苦しい人生から解放されると14歳の時真剣に考えた自分を回想している今でも涙が出てくる。そんな時、小さい時に、母が私にタンポポの花を見て、小さい時から音楽や絵画に才能を発揮していた姉と違い、記憶力も悪く動きも遅かった私に、『みどりには、このたんぽぽのように踏まれて次の日に起き上がって生きてい行く力があるよ。だからタンポポのように頑張って行きなさい。』と言ってくれた言葉を思い返し、姉に大切な人生を台無しにされて人生を終わらせてはいけないと考えた。それから、私は、勉強に専念した。勉強をしている姉は、私を虐めたので家に帰ると姉に虐められるので遠くの水道橋の塾を選んで通ったりした。そして18歳の時、両親を説得してカナダに留学した私の人生は、180度幸福への道を歩んだのだ。留学する前の日にも、姉は、留学中に何らかの緊急事態の為に私は、近所のカフェでバイトをして15万円貯金をした。その通帳を姉は見つけると、私のビザのついたパスポートを手にハサミを取り、通帳を渡さないと私のパスポートを切り刻むと脅して、私は泣く泣く通帳と判子を渡したのだった。当時姉は20歳だった。現実に考えてもこの行為は、虐めを超えて犯罪になる行為であるのは一目瞭然である。家族である以上仕方なく私は通帳を渡したのだった。

 今50歳になり、生きる尊さを考えて、この姉に負けずに生き抜いた自分は、立派だったと感じ考えらる自分がいる。自分の生きる生き方を考えても生きていて良かったと大きな声で言い切れる自分がいる。

 その後何度となく姉からの虐めにあってきたが、23歳の時カナダから帰国してからは、虐めでくよくよしていた自分から生まれ変わり、春日差しを気持ちよく浴びて咲いているタンポポのように生きている自分がいた。帰国後は15年外資系の会社で働きその後、この私の辛い経験から、私は人を癒す仕事をしていきたいとも考えられるようになり、それを成人してから自分で実践できアロマセラピストして活動もしてきた。

虐めで自殺をする子供立ちをのニュースを見ると心がとても痛いし、その子供たちの気持ちも本当に理解できる。ただ人生は、自分で生きるために存在して、小さいな心中にも一生懸命生きているとそこには、喜びがありそして生きる価値を感じる事ができる。消して生きるという事を諦めていけないのである。日本の文化で切腹が美しく尊い生き方として終止符を打つ事がたたられているが、人生死んでしまっては、何も始まらず。生きたくても病気で死んでいく人や事故で亡くなる人もいる。この世界で自分で事故の人生を断つ事は、言葉では表せない辛く悲しい結末である。虐められたら、全ての環境を一変するのが一番であると私は、考えた。

 昨年、11月19日午後6時半から姉と3年ぶりに再会して母の介護を協力する事を決議する話し合いに挑んだ。姉が狂気に立つ恐怖で私は、第3者を交えて話し合いをした。そして姉は、自己を固視して母が通帳とパスポートを返して欲しいというと、私が母のアパートの名義を昨年2年間母の保険料と税金、生活費を負担し続けていた末考え付いた。母の収入源を私の名義に変更する以外には無く、母も同意して手続きをしたのも関わらず、姉はこれを訂正しない限り、返さないの一点張りになり夜中まで姉は怒鳴り続けた。姉は、『もう私たちは、家族ではない。それでも良いの?』と母に言うと、母は自分の通帳とパスポートを返却しない姉に向かって『貴方は、一人でも生きてい行かれるわよ。ハリー(姉の前夫)を捨てて2回も結婚できる強い女よ。』と玄関越しで言われた姉は、図星ををつかれてそのまま何も言わずに玄関の扉を閉めて出て行った。実際にこの姉の行為も通帳の中身を見ると24万5千円マイナスになっていてたので、横領行為で犯罪である。家族だから訴えていないだが、今後このようなことが発生したら、公的な処置を真剣に考えないといけない現実である。多くの高齢者が騙されているのが現実である。私の人生は、虐めそして介護生活現代のトレンドに完全に乗っているのだ。

 この話し合いの後母が私に言った言葉を私は、忘れられない、それは、『あなたが18歳の時留学させたのは金銭的には大変だったけど、あの時みどりが留学してなかったら、貴方は死んでたね。』私は絶句して気が付いた。当時18歳の私は、姉から離れるのは日本から離れるしかないと考えたのだった。そして実際に3年前にも同様の方法を私はとったのだった。幸せな人生を生きるために日本を離れたのだった。しかし今回は、18歳の私ではなく、42年後の私であり、これ以上姉に振り回される人生を歩む事はないと考えた手段だった。人間の心理・性格は幼い頃の環境で決定する。私の幼児期は、辛くて悲しさの凝縮された日々だった。

 そして今その2つを辛さと悲しさそして決して美しくはないが、悲しみの感情の津波の連続で乗り切っている自分の50年の人生、生きている意味を今見つけている。虐められている人、家族に恵まれずに必死で介護生活をしている人それは決して楽な道では無い道です。しかし生きる意味はそれなりにあるのです。

フェイスブックはSNSで楽しそうな写真では、図り切れない辛いページがあります。でも生きる意味があるのは、人それぞれ素晴らしい価値があるのです。

 それは、人間としての権利であり義務であり生きる事を直視する責任でもある。自分の生命がこの地球上にある限り、生きていく尊さを考えて決断をして行動をする事で生きる価値を見出していくのです。諦めずに自分なりに生きていくことに価値があるのです。するとそこに、小さな幸福な人生が存在している事に喜びを感じる事でしょう。

 

 年明け早々辛い私の人生のお話ですが、改めて新年を迎える私の人生51年目を自分らしく生きる事を心に強く誓いこのブログを書き収めます。また、このブログを読んで下さった方がたのご感想お待ちしております。このお話をするには、51年の月日をかけての告白です。話すだけでも心の癒しになると寂聴さんが言っていた事を思います。私は、香りに助けられてここまで来れました。そして過去を引きずらない為にも今ここで辛い自分から解放されます。LETTING GO OF MY PAST!

 

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